アフター最終回の感想

clann as a dango

遠くで遠くで揺れてる稲穂の海
穂をあげ穂をあげ目指した思い出へと


僕らは今日までの悲しいこと全部覚えてるか 忘れたか


小さな手にも いつからか 僕ら追い越してく強さ
熟れたブドウの下泣いてた日から歩いた
小さな手でも離れても 僕らはこの道行くんだ
いつか来る日は一番の思い出をしまって


afterstoryとは物語がひとつの幸せを迎えたその後。必ずいつか迎えるであろう別れを朋也に体験させる物語。その中で彼は様々なことに気づき、自分に向き合い、周りに感謝するようになる。そして渚が一番望んでいた「直幸との和解」を果たしたのが18話。だけど、それでも物語は朋也を許してはくれなかったわけです。彼はまだ乗り越えきれてなかったから。渚の死。汐の死。かけがえのないものを失う、人にとって避けようのないいつか来る日…「死」という概念を知った後。

「渚」

「俺はここにいるぞ」

そしてもう一つの物語である幻想世界。これは解釈が難しいんですが、私は時計のようなものだと思ってます。最初のアバンでも時計が描かれていましたよね。例えば12という数字に二つの針が重なっていて、そこから二つは逆方向に同じ間隔で針が進んでいく。だから、あっちの始まりはこっちの終わり。幻想世界の始まりは、現実の世界の終わり。時間軸が逆な二つの並行世界。ちなみに時計の1〜12の数字は光の玉に当てはまっていて、13個目を得ることで初めてループから解き放たれ新しい時間が刻み始めるということではないでしょうか。そして二つの針は6という数字でも重なるわけです。光の玉が6個。これは一期の最終回のとき。渚の演劇で、確かに二つの世界は繋がっていました。

「物語の最後で、少女は唄を歌うんです」

渚が演劇の最後で歌ったであろう唄、だんご大家族。それは渚から朋也へ。
朋也から汐へ。汐からあの少女へ。確かに紡がれてきた。

「さよなら、パパ」

幻想世界の少女は汐だった。正確にはもう一つの世界と繋がった汐の意識。朋也が出会わなければ良かったと望んだから、何もかもとの接触を拒んだから、その願いを叶えてこの世界に連れてきた。ロボットは朋也。少女が初めにいた小屋は、おそらく秋生が守った木じゃないでしょうか。でもその終わりは悲しい色で満ちていた。本当はそんな世界に生まれることを望んでなかった。
だから

「私と出会えたこと、後悔しないでください」

「駄目でしょうか」

「…」

「…そうだよな」

「ありがとう」

その悲しみまで抱えて、かけがえのない喜びと変えて生きていくという、かつて自分の父親が持っていた強さ。それを追い越して行く瞬間。うれしいことも、悲しいことも全部まるめて…この先何があっても。ここで初めて朋也は渚と向き合い、またあの坂道をのぼりはじめる。

そして最後に物語は誰かに託されます。作中では「町」とされている他の誰かに。このエンディングを迎えるために。彼らの幸せを続けるために。「楽しいことはこれから始まる」その言葉通りに。ループから解き放たれて誰かの物語が始まる。彼らが全てを乗り越えた後に本当のテーマが投げかけられる。まるで親から子へ。ある世界から別な世界へ届いたあの唄のように、誰かに残されて、紡がれる。

「…町は、大きな家族か」

「はい」

だんご大家族です」

初めから持っていた渚の思い。呆れるぐらいの性善説。最初は理解できなかった優しさも、気づけば当たり前のことのように思える。そして笑ってしまいながらも、信じてみたくなる。好きや嫌いを越えたところにある人の思い。繋がりの原点。当たり前すぎて気づけなかった部分。私はそれを二つのテーマである「町」と「家族」によって教えられた。というより、気づかされました。

「やっと分かった気がする」

つまりは、そういうことです。
その結果少しでも誰かが優しくなれたら…それは良いことだと思う。
ありがとう。CLANNAD


小さな手にもいつからか 僕ら追い越してく強さ
濡れた頬にはどれだけの笑顔が映った
小さな手でも離れても僕らはこの道行くんだ
そして来る日は僕らも思い出をしまった



小さな手でもいつの日か僕ら追い越して行くんだ

やがて来る日は新しい季節を開いた